Q 自己紹介をお願いします。
A 岡本将徳です。
Q 最近アニメーション以外でどのような作品と出会いましたか?
A 種田山頭火の俳句。
小林賢太郎の「SPOT」とか。
ラジオをちょくちょく聴くようになりました。TBSラジオのJUNKばっかりですが。
個人制作のWebマンガ、こういう世界があったのかと思った。
Q 大学院で一番印象に残っている出来事や言葉などあれば教えて下さい。
A 留年したことかなぁ。
Q 一年次作品と修了作品との相違点や挑戦したことなど教えて下さい。
A 一年次作品は手法的なトライアルの面が強かったのですが、修了作品ではもっと作品 としてのテーマを引っ張って来られるように意識しました。
Q 本作品をなぜ作ったのでしょう?メッセージなどを聞かせて下さい。
A 主に自身のまとめとしてです。
自分の制作歴を振り返った上で見えてきたものを形にしたいなと思いました。
本作は、種田山頭火という俳人をモチーフにして「さみしい」という感情の象徴化を試みました。
そして、アニメーションという表現と俳句という文芸の類似性と相違性を探ってアニメーションにアウトプットする試みでもありました。
「象徴」と いう言葉を使うのは怖かったのですが、あえて使っています。
「さみしい」という感情を象徴として捉える上で、映像表現上での視覚的なアフォードだけでなく、歴史的関連性を持たせるという意味でも種田山頭火という人物に行き着きました。
同時に、実在の人物をドキュメントでもなく伝記でもなく、自分の解釈に寄せて「作品」として表現するには、「象徴化」というプロセスが必要だと判断しました。
山頭火は人間としてはまったく尊敬出来ませんが心情的には(個人的に)とても共感出来てしまい、人間らしいと思います。芸術家としては尊敬し、憧れます。でもダメです。山頭火になっちゃダメ人間です。
俳句って国語の教科書なんかには時代や詠み人によっ てまとめられて掲載されていることが多いですが、随筆の合間に挿まれたり友人にあてた手紙の末尾に添えられたりします。
「ここで一句」というそんな感じです。
なので、その句を詠んだシチュエーションや時代的な背景、作者の人物像といった「前書き」があってこそ読めるといえます。
以下、本編冒頭に抜粋引用した山頭火の随筆の全文です。俳句が四編添えられています。
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「歩々到着」
種田山頭火
禅門に「歩々到着」という言葉がある。それは一歩一歩がそのまま到着であり、一歩は一歩の脱落であることを意味する。一寸坐れば一寸の仏という語句とも相通ずるものがあるようである。
私は歩いた、歩きつづけた、歩きたか ったから、いや歩かなければならなかったから、いやいや歩かずにはいられなかったから、歩いたのである、歩きつづけているのである。きのうも歩いた、きょうも歩いた、あすも歩かなければならない、あさってもまた。――
木の芽草の芽歩きつづける
はてもない旅のつくつくぼうし
けふはけふの道のたんぽぽさいた
どうしようもないワタシが歩いてをる
(「春菜」層雲二百五十号記念集 昭和七年五月刊)
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お手間を取らせてしまいますが、「前書き」として種田山頭火の人物像や僕自身の今までの作品について興味を持っていただけるとこの上なく幸 せですが、まぁその辺は、見る人にとってあまり強要できない部分でもあります。
山頭火の句集や随筆は青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で結構読めますのでよろしければ是非。
岡本のものはこちらから↓
で、種田山頭火は自由律俳句の詠み人です。
とは言え、最初から自由律を詠んでいたのではなく、「五・七・五」の俳句も経ていますし、様々な文学の基礎を把持した上で自由律に行き着いています。
自由律俳句は、俳句を「五・七・五」の定型詩と捉えない、という形式破壊の要素を含みます。
「自由律は俳句ではない」という主張もありますが、山頭火の場合は形式よりも俳句的世界観を重視したようです。
形式破壊かぁ、できたらいいな。憧れます。
ぼくもそういった尖った生き方をしたいですが、肝も器も小さいので自信はありません。
生きていくのって楽しいことばかりじゃないじゃないですか。
ぼくは生きてるだけで不安です。ただただ不安。
不安と言いつつ、その不安がないとまた不安だったりします。
単純で矛盾です。
本作もそんな感じだと思います。
作中では「すべてがこころをあらはす」ように意識したつもりです。
そして「矛盾」であり「表裏一体」である。
「一歩一歩がそのまま到着であり、一歩は一歩の脱落である」ように。
山頭火は自身の俳句観を以下の様に言及しています。
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現在の私 は、宗教的に仏教の空観を把持し、芸術的には表現主義に立脚してゐることを書き添へて置かなければならない。(昭和八年元旦)
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ざっくりとですが、「空観」というのは一切皆空。「般若心経」に根ざし、「我」がなく実体性に欠けるということ。
いっさい‐かいくう【一切皆空】仏語。あらゆる現象や存在には実体がなく、空であるということ。
「表現主義」というのは内面の描写。客観的な印象ではなく、感情を、魂を、自我を、主観的表現の主張ということ。
ほんとざっくりとですが、大体こんな感じ。
「我」と「無我」の観念が同居しています。
それは「個を通して全を表現する」ということなのでしょうか。
とにかく、本作中では「すべ てがこころをあらはす」のです。
そして、本作は表現主義であり象徴主義であり「心いよいよ深うして表現ますます直なり」なのです。
更には、種田山頭火という実在した人物への敬意であり、人間への讃歌です。
しかし、どんな言葉でも、どんな表現でも、生きている現実との乖離は起こり得ます。
そのための「前書き」であり、「象徴化」というプロセスの必然なのです。
「表象」ではないです、「象徴」です。
うーん、わかりにくい。。。
漠然とした「ただ不安な感じ」に打ち克ちたいですし、そういった作品になれたらいいと思いますし、これから作れていけたらいいと思いますが、どうなんでしょうね。
高村光太郎は「道程」の中 で、「僕の前に 道はない 僕の後ろに 道は出来る」と詠みました。
種田山頭火は随筆の中で、「道は前にある、まつすぐ行かう。」と云々。
比較してどうこう、というわけではないですが、さて。
「さみしい」を滑稽に描けていたら作者的には成功です。前向きな作品のつもりなので。
素直に泣いたり笑ったりしたいです。
まっすぐな道はさみしいですし。
Q 修士論文のテーマを教えてください。
Q 修了展のテーマが「TALK」ですが、あなたにとって「TALK」と「作ること」との繋がりについて教えて下さい。
A 結局、作ることでしかTALK出来ないんじゃないかと思う今日この頃ですが、それだけだと意外とさみしい。
楽しいTALKがしたいです。
岡本将徳さんの作品「まつすぐな道でさみしい」はプログラム「第三期生修了作品 B」にて上映いたします。第三期生修了作品Bプログラムは、横浜会場3/9から3/11、東京会場3/17から3/23に上映いたします。
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